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その47 宮沢賢治と信夫山の歌

宮沢賢治といえば、「雨ニモマケズ」で有名な詩人であり、「セロ弾きのゴーシュ」「銀河鉄道の夜」などの童話作家として知られています。岩手の農民作家と自称して、「風の又三郎」などの話を独特の土地のなまりで書いていますね。
一方、すごい科学者で生物、鉱物に精通し岩手の花巻農学校で多くの農学生を育てました。熱心な法華経信者でもあり、とにかく、とても謎めいた人なのです。

その宮沢賢治が、一度だけ福島を訪れたことがあります。大正5年、当時、東京との往復で、福島を通過することが多く、その途中で、福島に下車したものと思われます。阿武隈川に立ち寄り、歌を詠みました。
「ただしばし 群れとはなれて 阿武隈の 岸にきたれば こほろぎなけり」の案内板が御倉邸にあります
信夫山についても一首詠まれていて、「信夫山はなれて行ける機鑵車(きかんしゃ)の 湯気のなかにて うちゆらぐかな」とうたっています。
当時は蒸気機関車だったので、頻繁に水の補給が必要でした。その湯気のなかに、信夫山がゆらゆらと揺らぎながら離れていく…という、ちょっと淋しい心境の歌でしょうか、信夫山は東京の行き帰りに、気にかかる里山だったのでしょう。
惜しくも、昭和8年37歳で亡くなりました。